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稲葉青様より

​雨降らば

 がやがやと、モノの行き交う音がする。
 ひと、と言わぬのは、そこがヒトならざるモノさえ集う場所であるからだ。
 根の国――聳える神木の根元にひらけた国ゆえ、そう称するのだと言う者もある。
 真相は、誰も知らない。
 少なくとも、この界隈を行き交う誰彼には、気にする者とてない。
 そうして日は過ぎていく。幾日も、幾千日も。
 覗いていた店先から離れようとして、十夜はわずかに身をひねった。
 知らぬ間に後ろにいた人影と、ぶつかりそうになったからだ。
「おっ、と……」
「こりゃ、失礼」
 結構な背丈の上に乗った頭は、見事な白髪だった。
 生得のものでなく、老齢によるものと知れる色。
 老いに枯れた膚には不似合いなほど鮮やかな茜の襦袢に、墨染めの衣を重ねている。
 身のこなしには隙がなく、年寄りゆえの危うさなど微塵もない。
 それは、ぶつかりかけたおのれを避けたしぐさからも、それとわかる。
 ――何者?
 咄嗟によぎる疑念を、十夜は強いて掻き晴らす。
 何者がいても、良いではないか。
 ここは根の国――『裏』の世界。
 よそでは咎められるような輩であっても、流され着いたなら、ここが居場所だ。
「ここの煎餅が、旨いと聞いてね」
 刹那の逡巡を見透かしたもののように、傍に立つ老爺が笑う。
 すいと見世棚を指した指先は、墨で汚したように黒く染まっていた。
 十夜の脳裏を、猛禽の羽ばたく音がかすめて過ぎる。
 ――爪。
 そう、爪まで黒く染まった指先は、猛禽の趾に生えた爪を思わせた。
 老人は十夜が見ている前で幾らかの煎餅を贖い、対価に六文銭を支払っていた。
 根の国は物々交換が基本。『表』の金も使えないではないが、価値が違う。
 それにしても六文では安すぎないか、と思ったが、店主は納得しているようだった。
 随分と大ぶりの袋に詰めこまれた、種々とりどりの煎餅が香ばしい匂いをたてている。
「ありがとさん」
 気安い調子で店主に告げ、老人はふらりと店を離れる。
 その後ろ姿を黙って見送りかけ、十夜は我に返って追いかける。
 ――何故か、追わねばならぬ気がした。
 追って、尋ねなくてはならないことがある。
 急かす想いに促され、彼は小走りに相手を追う。
 思いのほか足の早い老人に追いついたのは、店から三町ほど離れた先だった。
 息せききらす十夜の前を、下駄履きの老人は悠々と歩んでいる。
「何か、俺に御用かね。お若いの」
 追われていることに気づいていたのか、ふと足を止めた老人が、返り見もせずに問う。
 好々爺然とした物言いに含まれる、白刃にも似た風情。
 喉元を掠める、ひやりとしたものを呑み下し、十夜は息整えた口をひらく。
「おま、……帰り道は、わかるのか、アンタ」
「わからんなぁ」
 呵々と笑って答える老爺の言葉に、あわてたのは十夜のほうだった。
 こうした事態に慣れているのか老人は、少しも取り乱した様子がない。
 いまも、腕に抱えた煎餅の紙袋を赤子のごとく揺すりあげ、安閑と空など見上げている。
「境の辻まで、送っていこう」
「何の義理があって?」
 親切に申し出た十夜の声を、すっぱりと断ち切る風情で老爺は問い返す。
 ゆらりと返り見た目に宿るのは、鬼灯に火をともしたような光。
 見知らぬ者の善意など、おいそれと信じはしないと伝える修羅が、それには宿っていた。
 十夜は着物の衿を正し、老人に向き直る。
「俺は、この根の国で《彩》の団長をしている、十夜と言う」
 最低限の礼儀として名乗った彼を見返し、老人は眉をひそめた。
「何だね、その《彩》というのは」
「あー、ありていに言わば『なんでも屋』だ。困っているひとを助けたりする」
「それで、俺のことも助けてくれると?」
「……そうだ」
 なかなかひと筋縄ではいかぬ老人に手こずりながら、十夜は問答を続ける。
 こうまでしっかりした相手にお節介か、とも思うが、このままにはしておけぬ。
 ――なにより、この老人からは要らぬ火種を抱えた匂いが芬々としていた。
(だから、むしろアンタのためと言うより、職業柄ってヤツなんだが)
 内心の想いは口に出さず、十夜は相手の返事を待つ。
 すると老人は、にやりと口の端を歪め、彼に手を出した。
「そんならひとつ、頼むとしようか」
 怪訝に思いながらも出した十夜の手に載せられたのは、一枚の紙切れ。
 一見して、何も書かれていないように思えるが、それを指して老爺は言う。
「証文、だよ」
 ――貸しか、借りか。はたまた、他の約定か。
 ひとまず受け取らねば、話が先に進まぬのなら、と十夜は、それを懐に仕舞う。
 その様を見て、老爺は莞爾と笑った。
「じゃ、参ろうか」
 先へ立つべきはどちらなのか、彼は十夜を待たずに歩きだす。
「ちょ、待っ……」
「こっちで合っとるんだろう?」
 飄々と吐く口ぶりを聴き、老爺に追い縋って並びながら十夜は頭を抱える。
 ――本当に、案内など申し出なくて良かったんじゃないのか。
 それは、いまさら考えても後の祭り、というやつだった。
 木の股から流れ降る滝をくぐり、うねる木の根を踏み越え、歩くこと幾許か。
 あとにした街と似たような街を二、三、抜け、十夜と老人は『境の辻』を目指す。
 実を言えば、これといった場所があるわけではない。
 ぐるぐると『根の国』を経巡るうち、ここだと辿り着くのが、そこだ。
 それまでは、ただ宛てもなく歩きまわるより他にない。
 案内と言っても導きもせず、ただ連れまわすようなことをしている。
 とっくに、そんなことには気づいているだろうに、老爺は何も言わず十夜について歩く。
 案内という名の見張り役だと、気づいているのかいないのか。
 のんびりと物見遊山の風情でいる老人からは、その内心は窺い知れない。
 と、その老人が街中で足を止めた。
「ちょいと、こいつを頼めるかい」
 言うが早いか老人は腕に抱えた紙袋を十夜に託し、横町の裏に消えていく。
 すぐに戻るよ、と言ったは彼の声であったのか、どうか。
 突然のことに驚いた十夜は、たっぷり数回も瞬きしたあとで、あわてて彼を追った。
 もちろん、預けられた紙袋は、大事に抱えたままだ。
 ここの裏手に入った、と見えた先に飛びこみ、そこで人とぶつかりかけて身を躱す。
「っと、すまん!」
「いいや、こっちこそ」
 詫びを告げて顔をあげ、小路を見渡して、目当ての影がないことに十夜は焦る。
 脇に立つ男に呼びとめる手をあげ、彼は息せききって尋ねる。
「この辺りに、白髪に黒い着物のご老人はいなかっただろうか。只者ではない気配がしている」
 すると男は、珍妙な表情を浮かべて片眉を跳ねあげ、こう言った。
「その年寄りは言わなかったか? “只者ではない気配がする”なんざ、おいそれと人に言っちゃならん、と。……やれやれ、困った団長さんだ」
 ――俺だよ、と告げる声を聴いても、十夜には何が起こったかわからない。
 黒々とした前髪を掻き上げる、その男の指先が墨で汚したように黒く染まっている。
 それを見て、ようやく十夜は目の前の相手が誰であるか悟った。
「アンタは、――!」
「年格好を揃えようと思ってね」
 そのほうが目立たないかと思って、と悪びれぬ彼を、十夜は唖然となって見つめた。
 顔に刻んだ皺はつるりと消え、あとには役者絵に描かれたような顔だけが残っている。
 美形、と言うには難があるのかも知れないが、十分に女泣かせと思われる面つきだ。
(そんなことしなくても、まったく目立っていなかったんだが……)
 喉元まで出かかった言葉を、無理やりにも呑み下して十夜は、手にした紙袋を彼に返す。
「おや、そんなに邪険にしなくても」
 若やいだ物言いは、装わねば出ぬものなのか、老爺然とした口ぶりで彼は嘆く。
 それには弱った顔で笑み返し、十夜は肩を竦めた。
「そういったものは、俺が持っていないほうがいい」
「どうして?」
「――所謂、雨男なんだ」
「そいつは奇遇だね」
 俺もだよ、と嗤う口の端が、先までの老いた姿を彷彿とさせる皺を寄せる。
 と、思う間もなく、吹き寄せる風に雨の匂いが混ざる。
「言わんこっちゃない」
 嘆く十夜の懐に、すいと伸びた墨色の指先。
「証文、と言ったろう?」
 言うが早いか、彼は摘みだした紙切れを天に放ち、素早く刀印を振った。
「オンマリシエイソワカ」
 低声で呟く言葉も消えぬ間に、曇りかけていた雲が晴れる。
 気がつけば、雨の匂いはあたりから消え失せていた。
 からりと晴れた陽射しの中、佇むふたりの影だけが足下に伸びている。
「雨除けの傘も、軒先が借りられるとも限らんからね」
 莞爾と笑う、彼の指先が紙袋の口をひらく。
 がさがさと中身を漁った墨色の指は、海苔巻きをひとつ、摘んで十夜に差し出した。
「ほら、このとおり」
 湿気てもいない、と笑う彼の勢いに負け、十夜は煎餅を受け取ってしまう。
 ――質に入れてた証文の代わりだ、という言葉は、意味もなさずに耳から消えた。
 カラコロと鳴る下駄と、すたすた歩く草履の音が並んで道を行く。
 貰った煎餅を十夜が食べきるのを待っていたように、老爺であった男は足を止めた。
「そろそろ、お別れのようだね」
 言われて見あげた、その肩ごしに『境の辻』が姿を現していた。
 一見して、何の変哲もないお地蔵様の並んだ辻。
 しかし、そこが『表』との境だと、十夜には明らかにわかった。
 ――本当に、案内など要らなかったな。
 煎餅の焦げにあたったような苦みを舌に感じつつ、十夜は浅いため息を吐く。
 すべて心得ているように老爺は――そう、姿を戻した彼は笑む。
「お勤め、ご苦労さん」
 年若い孫でもねぎらうふうに告げると、彼は地蔵の立つ側へ歩いていく。
 あと少しで『境』を越える、その手前で、ふいに足を止めた老爺は行った。
「雨降らば、だよ」
「――え?」
 謎かけのごとく投げかけられた言葉に、十夜は瞬く。
 すると老爺は半身を返し、道の半ばで佇みながら、こう言った。
「冬来たりなば、春遠からじ、と言うだろう」
「あ、あぁ……」
 まだ解せぬ顔で頷く十夜に焦れもせず、老爺は莞爾と笑った。
「雨降らば、虹遠からじ。――雨降りのあとに虹が架かるのは、何故だと思う」
 刹那、十夜の脳裏をよぎったのは、あたたかな光に彩られた彼女の面影。
 おのれは泣きそうな顔をしていながら、いつでも彼女は日の光に包まれていた。
 雨男と晴れ女、そんなふうに互いを詰った日々も遠い。
「――失せものは、じき見つかる。俺の占手は、当たるよ」
 にやりと笑い、老人は片手を振る。
 墨色に染まる指が形を変え、次の瞬間には一羽の島梟が飛びたっていた。
 高く、遠い青空めがけて羽ばたく、灰色の猛禽。
 ひらり、天から舞い降りた羽根の一枚が、置き土産のように足下に落ちる。
 それを屈んで拾いあげ、十夜は大きな尾羽を指先でまわした。
「案内料、ってことか」
 先の占いと、この羽根が――律儀なことだ、と彼は想う。
 だが、不思議と嫌な気持ちではなかった。
 それは好物の煎餅を振る舞われたから、だけではなかろう。
「だーんちょ!」
 背後から呼びかけられ、十夜は振り返る。
 そこには大きな蛇の目を担いだ、ここのつの姿があった。
「迎えに来たよ」
 にっこり笑う、彼女の向こうには、はや雨雲の影が見える。
 証文とやらの効果は、去った老爺と共に消え失せてしまったのだろう。
 ――そういえば、名も聞かなかったな。
 こちらは名乗ったのに、あちらは名乗らなかった。
 無礼なのではなく、そうした手合いなのだろう、あの老人は。
 名を知るも危険、名乗るも険呑。そうで、あるならば。
(縁があれば、いつかまた……)
 そんな機会など、互いのためにないよう祈りながら、十夜は手をあげた。
 老人に、告げる間もなかった別れに代えて。
「雨降らば、虹遠からじ、か」
「なぁに、団長。おまじない?」
「……の、ようなものさ」
 家に帰る道すがら、呟く十夜の口元には、笑みともないほころびが滲んでいた。 

とんでもないモンもらってしまった!!!!!!!!!!

この……この……圧倒的情景描写……

なにげない一言から、稲葉さんのお宅の石斎さんと十夜のお話を頂きました…

色々汲んでいただいている……石斎おじいちゃん強い…好き…!!!


ありがとうございました!

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